To be continued

単純な日記です。

池の水再び(カブり有)

いま、池の水全部抜くを見ている。僕はこの放送があるのをじつは朝から楽しみにしていた。しかし見ていて改めて思ったのが、「池の水、全部抜いてほんとにいいのかな…?」っていう人間がこの中から誰一人としてよく出てこないなということである。
番組を見ていると、皆幾分か「池の水…」という超常現象ほどの大きな物事に対してハイになっているし、その中から外来魚だったり、不法投棄物がたくさん出てくるところからして一応の大義名分みたいなものはあるみたいで、それから住民とかも普通にやんややんやお祭り気分で見学していたりするんだけど、しかしここに突然長老みたいな人がでてきて「池の水は絶対に抜いちゃいかん…」というお告げみたいのをするなり、なにかしらのトラブルが0.5件くらいはあっても良いような気がする。というのも僕自身がそう感じているからである。理屈、とか常識とかではない。それは「感覚」で…「池の水全部抜く」それは昨日みたテレビ(IPPONグランプリ)の受け売りで言うと「神にでばやしを付ける」みたいな感覚がある。「川にコカコーラ1万年分注ぐ」どうだろう。「空に向かって東京タワー十万棟」コワくないか…池の水全部抜いて、そして、その後ハダカになっちゃった池の底を見て、いろいろな悪いもんが出て来たはいいが、池自体の人格をいったいどうするのだ!な〜んちゃって。僕はけど、たぶんこれを見ていて池の水すべてなくなるまで四日を要するという話を聞いてその二日目くらいに朝起きて「今日抜かなくても良くない?」と言い出したくなるだろうと思った。僕は買い物をする時も、肉を買いすぎたくない、魚を買いすぎたくない、彷徨いたくない、ゾロ目を出したくない、みたいな「ない」「ない」「たくない」みたいな感覚勢揃いで歩き回ってあるため、池の水抜くときもたぶん五時間目くらいに「池の水抜きたくない」わたしが現れるような気がしてしまったのである。よく、せっかく遊園地に来たのにジェットコースター乗りたくない人とかいたりするけどああいうイメージに近い。周りからしたら唐突なのかもしれないけど、僕からするとジェットコースターの存在意義に対してはもともと、はっきり言って生まれる前から疑問を感じていたのだよ。みたいな。みてえな。
とにかく池の水、全部抜くに対していったい誰から「抜いても良いよ」と言ってもらうのかしばし考えたくもなる。僕は番組自体を批判したいのではない。とりあえず普通に、楽しみにしてみているし。けど池の水って誰のものなんだろうみたいな僕はそのことを考えると何かしらの不安を感じてしまう。もし村の中で生きているのなら僕みたいなやつが怪しげな仙人に扮して忠告をしにいくのかもしれない。ともかくもよく知らんしわからないから恐れているのだということを隠しつつ。