しばらくの間毎日家の掃除をして過ごしていた。見渡せばだいたい片付いている部屋でも,内側や棚の隙間は大分汚れている。そこに掃除道具をもってきてやるのが常で,それはだいたい一日中休み休みおこなってるのでその間に色んな人がそこに訪れたり話していったりする。そうなったのも思い返してみれば多分掃除をしていてもいいと誰かからきっと言われたからで、根っからの,緘黙だった僕も、他人同様にどこかで解決の糸口を見つけるとそれが上手くいかなくなるまでいつもそうし続けているのだった。そのうち、掃除をすること自体にもはや◯くんの匂いが染み付いてきていると思った。た。「なんで?」「〜から」「どうして掃除するの」「気持ちよく過ごす為だよ」「成る程」たったそれだけで、僕は単にそれは,追求されないと言うだけで、それは相手がまだ,やさしいからじゃないかと思い、それじゃ自分のためにそうしているのかと理由自体がよくわからなくなったが、来るたび、当たり前みたいにしてそこで何度か話していた。そうして自分はもう平気になりつつある部分を感じていた。なぜ、そうしたのか、なぜ、いまだにそう考えているなんて呆れ返り,それからもまだやっている。昨日僕は、又◯くんにフロイトの論理を話してみる。◯くんは自分の母でも友人でもなかったが、いつかテレビで見た科学者みたいにして僕の言っていることの意味がほんとうに分かるようだったが、同時に僕はそれを分からなくても良いことなのにと感じているせいで、それをはたから見ていることでなぜかくるしくなるのだった。そうして元気になった僕は、退屈を絵に描いたように持て余して来ている。僕は外に出たいと思い、そこでどんな結果が待っていようと,ひとびとのお喋りや下らない人間関係に揉まれて,真っ黒になるまで遊びたいと唐突に考え,一体それは何かと思う。自分はふと思い、ひとは、他人の群れの間に入って生きているものじゃないかと思う。じゃあ、僕はとびとびで学んでいた色々な本や、動画や、詩なんかに対して、それは正しく役に立つものでしかないのに、どうして、つまらないような、鬱屈した気持ちを感じていたのかと思い,それはこの瞬間まで知っていた事でなく、そう感じたときからさかのぼり、本当はずっと自分はそのことを疑問に感じていたのじゃないかと思った。僕はもう他人の間にいない為、かと言って戻れもしないのは何故かを考えてみる。それは、自分をとりまいているのが世界で,世界がくるっているか、自分がくるっているせいだと何度目かに思った。これまであったくだらない人間関係、いざこざ、嫌いな他人のことを思いだし,僕はそれらが大嫌いだったのに、今はじめてそれら全てに揉まれてる事自体がひととしての時間を過ごす事だったんじゃないかと思う。なぜ、僕は仕事だと思っていたあれこれを、休んでいる間じゅう手をつけようと思わなかった理由を唐突に思いだし,それらを手で掴んでどこかへ投げ飛ばしたくなっていた。それからフロイトはと思い、僕は小さい種が土に落ち,それが芽を出し,花が出るまでが人生だとすると,僕達は出会うまでが人生なんだと思い、僕がこれまで過ごした生き方や他人の生き死にを思い出してはそれがいくつかのことを荒立てていたとしても、それは生まれたのなら誰にとってでも当然あるべくしてあったことなのじゃないかと感じたのだった。もっと外に出たいと思うのは,もっと,他人よりも生きたいと普通に人が思っているのも、花が咲くまでの論理だったんだと思い,それをもともと、肯定などしていなかった僕が、またさらに否定しなければならなかったのかと思った。僕が食べたくない、性欲が無いと思うことは、単なる病気じゃないかと思った。そんなふうに、元気になったせいで急に理解したことを、未来の事について◯くんらも知りたがっていると思い知らせようかどうか迷っていたが、僕の手元ではなんの形にもならなかった。
僕はふと、寝室の中で昨日見た夢のことを思い出していた。そうして鬱屈をかかえていた僕は、それ自体がどういう事なのかを解ろうとしてみた。僕は、欲ていうのは、人間が色々な面を持っていなければならない理由だと思った。それで、僕も他人とは分かち合えないような面があるという事、それがどういう事なのか辿って行くうち,それはもっと自分の内側へ、それから暗くて深い場所へ行ってしまうような気がし、目を閉じてるとより一層そう思えてくるのだった。僕はそんな風に暗い面を持ち,安価なものを食べたがり、色んなものを捨て、自分は時にはそれでもまた笑えるくらいの熱量があると思い,そうしてるうち、◯君が来ていた。そのときは、また黙っているだけの僕の頭のなかが読めるようで,僕はそれに任せたらどうなるのか見てみようと思った。◯くんはわたしに呼応していて、僕はそれはなぜかと考えていた。いつもならまるきり他人同士でいるせいで,ガチャガチャしている受け答えや、他人を受け入れなきゃならないという不安もあまり気にならなかった。
次の日,起きたら誰も家の中には居なくなっていた。いつもはすぐに忘れてしまう事だが、最近は忘れないように書き留めるようにしていて,そうするうち自分にとっても重要なことに思えてくるのである。けど何だかよく分からない朝だった。僕はなぜいつも,僕に対して匂いをもっと付けていかないんだろうと思った。ワガママな人は男でも,女でも皆そうして、僕の中にぐいぐいと介入して来ようとした。朝食を食べた後の皿洗いだとか、色んな事を忘れて生きてはいたが、僕は何故かこう思っていた。僕たちの様にこれ程うまくいった物事があったのに、ーそれはひとりの、健康を手に入れようとしてた人間の論理のように思えてきていて、僕は◯くんが自分に合うように,ちょうどいい話者としてずっといる事を本当にいつも勿体ないと感じているのだった。
これらのいろいろな気持ちが,いったいどこへ向かっていくのだろうと考えて、僕の考えはそのときはそればかりになっていた。
昨日分〜死んだようにして毎日生きる
その子が一日中わたしに対する論いを辞めないで居てわたしが何かを決めたりえらんだりする事に自己実現があるだとかわたしの懐にどれだけ潜り込めるかばかり考えていて、それを一日中見てるうちわたしも外に出て何かをするのを辞める事にした。わたしも外の世界に希望を持つのをやめることにした。外の人と話すのも未来を描くのもやめることにした。なんの関連もないが,そのことについて深く考えるるのももうしない。ただおわり、それだけ。
自分の精神論とか体力について考えていて、過去はどれだけできていたのかを思っているうちに過去と今とがぐちゃぐちゃになってきて、目の前にある事も見えていないし自分は他人程可能性も持ち物も持っていないんじゃないかと思えてくる。周りを見渡してみたら,単なるストーカーが,自分の人生とファンタジーを混同しているようなのがいっぱい,わたし自身にへばりついていて、虚構を呟くのも辞めないでいて,半径何メートル以内かが世界だとして、特に考えるべき事も何もない。生き物とか、他の国のこととか,歌や映画とか,考えてもいいようなことに対してもとにかく億劫で,見たくもない,知りたくもない,カネの流動もなければ、絵空事もしくは絵に描いた虚構,全くの他人事で、それが変わったとして何が嬉しいか,わたし以外の他人の感情論がうごくだけでしかないと思う。ずーっと,知りもしない他人で埋め尽くされていて、他人、他人、それの尻拭いと汚物を掃除してるだけで,もう手も足も動かない。楽しい事も無いし、鬱陶しい。外国を見てみれば,いつも通りの論理で邪魔をしている傍で,それを同時に掃除をしていて、何をしたいのかわからない。次の日見てみても邪魔をする傍らで救済の論理を言っていて、厚切りジェイソンみたいな顔の人たちが,一体何を考えてるのかずっと分からない。不可解がずっとある。この間また映画も,作画が崩壊していて,現実よりももっと夢がない。夢が潰すのが仕事なのか何か知らんが,そういう人が胸を張って生きており、巨万の富を得ているのも事実。こっちには1ミリも夢がなくてゴミっためでまた、ファンタジー中毒者が蠢いてるだけ。
何をしたって,しなくてもずっと同じ人間が同じ論理を言って攻撃に勤しんでいるだけ。いつまでたっても防衛にもならないし何処からいつでも攻撃される、もうなんも生きてないような人間がいて、そこでなんの流入もメリットも無い中で、そこから痛いのを逃れる為だけにただ自浄の論理をつぶやいてるだけ。
いつ良くなるの?→よくならない、それは他人がいるから
いつ利益があがるの?→あがらない、それは他人に取られてるから
いつ成長するの?→待つだけ。それも他人にずっと邪魔されてる
だから、【【何もしない】】→ムカつきも悲しみも楽しさも全て他人の為に抑え込んで死んだように生きる
が正解。もしくわ、山上みたいになる。
理由って自分のためにあるんだなと思った
特に友人とか親とかこいびととか
考えてみれば色んなことをなんとなくで選んできた
猫もたまたまペットショップで会っただけだし
たまたまうまれてきた親と、
たまたま席が近かった友人とか
何となくいまも居るって感じで、
なんで?どうして?こんなんじゃなかったのに??
と考えるたびに自分の理由がたくさん出来てしまった
けどよく考えてみたらなんとなくはじまったことにはやさしさがあった
こうじゃなきゃダメっていつもいう相手は完璧で素敵だったが
ときどき身の回りのものみたいにわたしを虐めた
それからわたしを型にハマれば自分なりの
完璧になると思ってまったく無意識にわたしをいじめた
こうじゃなきゃだめっていうルールはいつも
自分のためだった
いつも他人のためじゃなかった
で、なんとなーくではじまったとこに今もいて
その後にずっと続いてしまっている毎日に、
色んなことをゆるく注いでくれる
やさしい人は自分から選べるって思っていなくて
なんでも、イイものみたいのみつけるのがうまい人
イイもんに囲まれてずっと満足はしない人
そういうのはずるがしこくみえてた
身の回りとかルーズでなんの決まりもない
なんとなくはじまったことに、誰かがいい加減だと思い,
周りもそう言い、
けどなんとなくでもどうにかなるって、
どうにかならせるのがうまくて、
他人からの評価に無頓着だったりして
自分の価値観がちゃんとあるから
そうなってるんだな
ー。
(これは、反省ポエムです)
わたしに向かって良い子だね、と吐いていき、未だにこれからもここには居るつもりみたいだった。わたしは、あなたよりも10歳も年上なのに?と思い,それがあなたが体裁を保つときにする態度なんだなと思う。大人が子どもから言われたくないことを言われたときにする仕草そっくり。だったら傷ついたって言えば良いのに。それがあなたがわたしのためにする事なのにと思うが、そんなふうに、不本意にも飼われてしまってはいるが,わたしも、これからは新しい生活がはじまるのだと何か期待して居た部分があると思う。けど、続いて居たのはこれまでと同じようなことの繰り返しで、それに小さなお盆に対してもっともっと山盛りに料理をよそうみたいなことだった。
自分はそんな言葉でコントロールされるようなつもりはさらさらなく,これまでの親同様に男は皆,相手がもっと複雑怪奇な心理を持っていることに気づいていないと思う。なぜって、それは選べるところに自分がいると思っているから。親,兄妹、他人,そういう本気で誰かを愛して煩わされたことがないから。知る必要が無いから。それは、動物だから。
わたしは最近自分らしい格好を厭わなくなってきたのも、客観的に見れば抑圧されてきたところからの解放にあたると思う。これまで、それは毎日言及をされてるわけじゃないが、何をして居なくても容姿や性別対する嫌がらせは当たり前としてあり、周りの女性や男性とずっと並べて比べられてきた。それがずっと当たり前になった。わたしはとにかく,手段もなければ思想や関係なんかに関して物凄く貧乏だったのである。いまはわたしから自由を選べるようになり,それで男達が、誰かの苦しみを見て、自分は永久的に食べ物を与えられるところにいてすくすく育ち自我を大きくさせていった反対側にいて、わたしの方がいまやっと育ってきたんだと思った。そんなふうに、バランスが全くおかしかった男と女としていたあとで、男と女のバランスが取れるようになり,世界はどんなふうに見えるようになるんだろうと思った。わたしの方から男の態度を無視して、衣服や娯楽なんかで抑圧から解放されるようになり、女からも今でも何かを言われたり,些細な欠点をあげられることもあるけど,何を言っているんだという感じ。わたしがわたしとしていれば良いと思っているとき、そうやって降り注がれる言葉は,親しい人間を装った負け惜しみにしか聞こえないと思う。わたしたちは親しくも無いんだから,見られる筋合いも無いし意見される筋合いも無いと思う。自分だって比べたら,猿みたいな顔をしてる癖にと思う。
何かを書くことに対して,義務も必要性も感じていない。けど相手に親しみを感じていれば、少ない材料で、楽しんでもらおうと思ってやる事もある。でもそれは強制される事じゃなく,かけと言われるから,ほら、こんなふうに本音をたくさん入り交ぜて書いてやっている。わたしは全然納得なんかしていないって事だ。
相手のことを見て,自分をわかってくれる事もあった。わたしも伝えるべき事を、年上とか経験者として言いたくなる事がある。皆、プロだから,普通の人よりなんでも出来るんだと思う。読みも書きも,それは当たり前に出来ると思う。けど、そこから相手を感動させることはやっぱり難しい。難しいことを創作家はそれでもやろうと思ってやる。演じる側はそれに乗っかってやる。どちらも難しいことかもしれないが,お互いのくるしみは分からない。分からないんだったら、子どもをあやすように適当な声をかけて来るなとも思う。そこが追い立てられていたら嫌になるところなんだと思う。もっともっと楽しみ以外の苦しみや言い訳なんかを見せて,自分も汚いんだと自覚すれば良い。それがまず一歩で、すべて責任を追ったあとの人間らしさをこちらから自然に愛させてくれればいいのにと思う。
わたしも以前はワーカホリックだった。どこかにみとめられるために書いていなければならないんだと思っていた。詩…それだけじゃだめで、小説を書かなきゃならない。短歌も、ひとつの形にしなきゃならない。けどそれを,どこかで見せて,認められる先があるからそれはやっている事で,その先々に苦しみしか無かった今はほとんどそれが去勢されている。でもワーカホリックでいる間は、止まっちゃいけないんだと思っていた。止まったら,自分の中からの、もっとやらなきゃ、もっと知って,書いて,良いものを作っていなきゃという声が出てきて,自分の中の負けん気がすごく苦しいと思っていた。だから自由を楽しむことなんてまったくできず,それからそういう精神状態でいれば、時速150メートルで走り続ける車みたいなものだから、おのずとゆっくりだったり、止まってるように見える人に対して「何をやってるの?」とも言いたくなる。色んなことに気づいて色んな意見を持っている間,ぼっとして自己満足をしている人を見るとバカなんじゃないかとも思っていた。
確かにそういう時は成長していたんだと思う。色んな事を書いて,感心してもらって、けどそれが幸せだったかと考えれば、二度と戻りたく無いと思う。生活も破綻していたし。けど今はそうじゃなく,もう病気と暴力、それから加齢、貧乏で何もできないんです。そうだそれでも、人を見て書いてきたんだから、良い人がいれば書ける気がする。けど、他にも色んな事をしていないと、やっぱり自分の体のバランスが保てない。何もかもが足りない,世界に対して何の期待もしなくなったいま、書けと言われている意味がまったくわからないでいる。自分も、他人も苦しめて,誰も感心しない。自分が問題と思っているのは、自分が作ったものをこころから楽しめなくなっていること。何かどこかうわついていて,今そこにあることに,感動し切れてない。書いたものがキラキラしてるように見えない。それは作品の出来不出来というより、心が乗ってない気がする。ここじゃ無いと思ってるのかもしれない。なぜか、考えるが、不本意というのが根っこにずっとあり、それはわざわざ皆で会わなきゃならない場で目を覚まされることもあるし、わたしがこんなに年上で,本当は教えたりする立場なのにこんな事をやって助けてもらってるように感じるというとこなのかもしれない。
もし自分のことを客観的に見れば,わたし自身はこんな集まりの中でからかわれるような場所にいるんでなく、専門的な知識を持ってる年配の人と沢山関わり,色んな事を学んだり,教えてもらったり,認めてもらったりするべきだと思う。自分と同じくらいの人と切磋琢磨したり、それがきっと幸せなんだと思うが,結局、権力から閉じ込められて、へんな男からずっと揶揄われてるのという不自然なとこにいる。だから溜まっていくのはひとはちがえどずっと同じような感情論ばかり。ずっと同じような事を繰り返してされているんだから当然と言えば当然だ。
おわり
AさんB子さんCさんから手紙が届いた。いろいろなことが書かれていておもしろかった。自分では気づかないようなことも色々書いてあった。こうやって、他人の心の様子というか形みたいなものを知るのは面白いなと思う。それから、自分の人生とか過去みたいなものを思い浮かべてみて、何か偽物みたいな、嘘くさい感じがまあまあして来ていた。それか、病気なのか、自分が信じている部分と、表にある部分があれど、皆が言う事と未だその部分が重ならないような気はして来ていて、嘘くさい感じはしてきていた。こういう生き方をしていて、プライバシーのことを考えるのは大半を占めていたりするけど、もしかすると別に今のように見たくないものをわざわざ見ながら,文句を言いながら,しなくても良いことを必要だとしやっていかなくても生きていけるんじゃないかと思った。例えばこうやって,写真や思ったこと,考えなんかを見られたり盗られたりすることをわあわあ騒いだりもしてるが、猫なんかみたいにその瞬間感じた事だけがあると信じ込んで生きていけば良いんじゃないかみたいな感じにたまになり、二十四時間をそれで埋め尽くせば良いんだと思う。そんな風に考えれば、ずっと昔はプライバシーなんてなかったのかも知れない。この間読んだ雑誌にも書いてあったが,仮想通貨や電脳世界が今はある世界にいて,その中で自分が主に何をやってて周りの人が何をしてるのかを考えたりしていた。わたしも趣味のことや,ファッションなんかを見ていて,真似をしたりする。それで、皆に見せたり教えたりしたくなるのかも知れず,それ自体,言葉の発祥と同じように,同じものとしてあるはずだった概念を、別の人の別の側面から作り出し,それを交換しようとする…それが通貨とか言葉の交換の働きみたいに思えた。自分はそれが発見だと思った。皆が同じだと信じ込んでいる、というか、そういう定義をしたあとで皆やっと、わあわあと関係のない争いをやめてイチから話し合いや思想を交換するようになる、そんなふうに無理のある定義が、こころの形を無理しているのがいまで、それは画一的に悪だとは言えないが,人ってやっぱりおかしな生きものではあるなと思った。自分も猫を見ていて,こんなふうに黙って暮らすだけで良いような気もしたけど、やっぱり仕事の合間や息抜きとして色んなものを見たり,情報を得て,自分の考えをもっと突き詰めたいときなんかは、そういうネットに触れてみたりする。けどそこはやっぱり定義されながらも定義されたがらない人が無茶をしていたりして,自分もその事に気づかないで入り込んでたりしている。
自分が関わってる人とか期待してる相手のことを皆が見ていて,自分がそんなに不安に感じてるように見えてるのかと思った。ゲームや、未来に対する希望を込めているというより、いまも自分は病気にさせられているんだからという考えが強固にあるみたいで,だからそれを治してくれる相手,もしくは実現してくれる相手なんだと何処かで思ってはいると思う。だからその役割に対して向こうからどう感じているのかは知らないが,わたしは「医者」として相手がどれだけの能力を持っているのかをずっと見ている。自分は病気ではなくて思い込んでるだけなんじゃないかとか,あまり周りからの圧力がない時は,その辺も思い出せなくなっていたりする。けどわたしも、医者を査定したりする。わたしが怒り狂ってるときにうんざりし,誰も何もやって来てはいないのに、ただ悪意のない相手に怒っているわたしが全て悪いから、それ以上しゃべると,もっともっと悪いことが起こって,それだけで自分を損なうというのがこれまでの教育で、中盤は,それをめちゃくちゃなピンク色に染めながら、じゃあ、また金曜日に、とか言うのがお決まりだった。わたしは相手がいつまでいるつもりなのかも見ているし、嘘をつくならそれが何のためなのかも見ているし、そもそも,なぜこのこと自体を肯定も否定もしないで突っ立っていられるのか,その事についてわたしが怒りをぶつけたらどんなリアクションをするのか、全部見て,相手が未だそこにいても良いのかを検査している。すべて病気と,その裏にある家族がもしなければ,そのすべてを明日にでも忘れ去って,自由に生きてるのかもしれないが、わたしはやっぱりそこをたどって生きていかなきゃならない。わたし達は対等ではなく、年老いた動物と、しろうとのような医者がそこで対峙していて,その限られた空間にどれだけの興味が保たれてるのか、それが結局自分が生きてるときの空間でしかないんじゃないかと思う。
劣等感について色々感じるが,いちばんは、自分のしてることに何の意味があるのかという事だと思う。
服を決めてそれを着て外に出て,また考えて、そういうのはどこまで失敗か,よく出来たのかも分かりやすいし,選ぶのも全部自分だから面白い。けどそもそも、自分がつくるものは自分と近過ぎるのと、結局自分をあまりわかっていないと感じる。数年後いまの自分を見れば,たくさん分かることがあるのかもしれないが,わたしはわからない。わかってないことにも驚いたし、他人事みたいに何か皆が皆素直に歌を歌っているのを見ていた。
自分はただの事象なんだと思う。誰が喜ぶのか、得をしたり損をしたりするのか知らないが,そのことを知った後で、あんなに全く知らないような人間が、意地悪をしながらもでも、興味はあるんだよみたいな無理ある訳の分からない態度を山ほどして来てくれていた理由はそれかと思った。「山」だったんだと思い,そこにほんとうの自分はいるのか…と聞かれて,別にないような気はした。これが、自分がそもそもばかばかしいと思う理由だった。そこに気持ちも入らないし,そもそも何かを得たり興味があったりするのではないのに、人だけは大勢こっちを見ていて,痴態を散々に披露してえばって行っている。自分が何かを作るのに夢中になっていた頃あったように、正直,相手が誰であろうとそんなの知らないっていうか、作れさえすれば良いと思っていて、ゴチャゴチャ言ってくんなとさえ思ってたと思う。そういうとき、中にいる人なんて気にしてはいないし,そういうとこの先に自分はいつもいて、だから平気で無視もできるし、二枚舌みたいなことを言いながらテレビでは、ブリッコみたいな服を着て出ていっても自己の矛盾と酷さにたいしては精神が崩壊しないでいられるんだなあと思う。けど、自分もそうだったからわかることで、だから創作は結局、もちろん非情な気持ちから行われてることは沢山あるんだろうし、いまさらそこに感情移入するとはいったいどういうことかを考えたりする。
ここ最近はそういう、これまでにあって来た実際の関係者のクールをよそおうというばかばかしい態度を思い出しては,そんなふうに考えていた。自分こそが史上で、そこに知らん動物がのっかっているみたいな。けどわたしも、知らない人のことなんてどうでも良いとずっと思って生きていた。とにかくつくるとは、そもそも大半はそういうものだと思う。そうでないならただ全員馬鹿みたいに涙だけそこで流している筈。ひとさじの自分勝手で作り出して,その後は嘘をこきたおし自分の身を守っていく。だから界隈には当然クズが多い。
詩①許さないはキモチイイ」
よってたかってああだこうだ
いろんなことを吹き込んでは
うそばっかりついた
まだなんもわかってない相手にあれこれ
ふきこんでどうリアクションをするのか
コソコソ見てて
うしろで吐き出したりしてたのしんでた
それがおとなとこどもの違い
それが大人と子どもの違い
いま、大人になって用意されたものを見るに
わたしはこう思っていた
「だ ま さ れ て た」
「だ ま さ れ て た」
わたしは許すか許さないかを考える。
わかんないようにされてたがきんちょとはちがって、
大人にはその権利があるから
年老いたババアとクソジジイを見て
よぼよぼのうたをみる。
なんで
わたしのこと、
だましたの?
って、
し ぬ ま で
その理由をきいてまわるんたょ。
詩②
こころってたしかに天気予報図みたい
晴れている時は幾らでも優しく出来るのに
土砂降りのときは晴れ間を探して彷徨ってる
分断に分断を重ねた地図帳の上、
それを治してくれた人が…いまはどこへ?
分断に分断を重ねたわたしの地図帳の上、
そこがまだ雨だらけで何も見えない
何も見えない なにもみえない
何も見えない なにもみえない
晴れている間はいくらでも適当なこと言えるのに
土砂降りになるといくらでも、あのときのわたしとして掘り下がっていく
もっともっと深いところへ
もっともっとほんとうに一人の場所へ
わたしはかなしみにはふれない
それはたった一人では触れてはいけない琴線だから
それを治してくれた人…いまはどこへ?
彼は、分断に分断を重ねた人たちと仲良くして、
いまもわたしの悪口を言ってたのしんでいる。
わたしはいまも土砂降りの中にいる
だから何も見えない なにもみえない
なにも見えない 何も見えない
昨日行ってきた集まりで、僕のことを応援してくれていた人が来ていて、その人は一応文芸界隈のえらい人なんだけどこれまで殆ど僕が知らなかった紆余曲折について偉ぶったりとかしないでちゃんとまともに」いろいろと教えてくれました。その間、実はその人が僕の隣でずっとポコパンをやり続けていたんだけど,自分はここ数年ずっと死にかけVRおじさんみたいな人としかずっと話させて貰えなかったのが殆ど全ての仕事のようなものだったので「なんでお前は人の目の前に来てポコパンをやるんだ」と思うよりも、もっと自分がジョングリア孤児院にいるジュディみたいに強めのジャブみたいのを打ったら仲良くなれるのかもしれないとその時まだ僕は考えていました。
で、とにかくそういう時間が過ぎていった。こういうとき、いっぱい話題みたいなのを抱えてきてるはずの相手もきっかけとかがなければ互いの出方をみてるのみでなかなか話始めない。で、僕も全然知らなかったと思い脈略なくそこに来てるおじさんについて考えてるうち、おじさんのフィールド=古き良きジャンプがあるとき、自分は未だりぼん&なかよしみたいなとこにいるのかもしれないというとき、それがもしかすると新しいジャンプが想像できるっていう話に、なるのかな?と思い、でもやっぱり自分は、あまりに図々しいのでそれを言い出すことはしませんでした。で、そこにある飲み会のメンバーにとってちょうどええ気分の説明で、ここにはそれよりも、メンバー以前に大きな問題がひとつありました。それはこの狭い部屋にいる全員が,話す内容のひとつひとつを部屋にいるでかいおじさんから聞かれてるということです。でその間,おじさんの方からも話しかけてくれることは結局ありませんでした。なので僕は、相手ともしかしたらポコパンで顔を隠しながらキレてるんじゃないかなと僕は思っていたんですが、結局急転直下かもしれないけど何の意味もないていう気持ちにさせられてました。それは、そもそもこっちは知ってるわ。というか、自分のいる場所を推し量れないような相手がなぜ,さも知ってるような顔で言及してもいいと思ってるのかというか、こういう飲み会がピカルくんのクソ拾いみたいなゲームの中にいるときに不自由を強いられてる僕から、いそいそ来た人が何も言わないで取る態度かと思い,そういうとき自分は立ち位置も孤児とかじゃなくて炎の番人くらいになってきて何するも決めて来ないで一体どうするっていう気分になんかさせられているんだなって思ってました。で…その人界隈のそれまでの事、僕には記憶が殆どない。その人らにこれまで会ったことがある…のかもしれない。でも分からない。分からないって思うのは,記憶がないのもあるしそもそも、自分の機能的にもう大丈夫なのかな?みたいなとこもあるというか、この間写真とかを整理してたらこの間まで,他人と話してた思い出みたいのが自分の経験した事/実際にあったことって1:9くらいの割合で存在してたんだなあって改めて思ったって経験にもあります。だから、仲良かったかどうかと聞かれてみて、一応知ってる」っていうレベルの存在なんだなと思う。一応それでも話が膨らんでいくのがこういう場所なんだなとは思っていて、で、その後、一応その人のことを横目で観察していたんだけど、何か最後やりきれないと思ったのか僕に向かってわざわざ◯択みたいな質問をパンチみたいにして来てました。でもまず、そもそも全く知らん同士がいて、そんなことするの凄くつまらないなと思った。自分はそもそもの話をしてます。だからおじさんは、親切で来てくれてるのは知ってます。で、僕がキレてるのはその下に余ってる重宝する話題みたいなものに対してで、だから一応わざわざ,根も葉もないとこから問題を探り出して、盛り上げてどうするっていうことで知ってる部分でいいますが、ここに居るおじさんの願望としてまず、放ったらかしにしてたであろう個人的な問題について、中1が急に威力を発揮してみたら止めどなくなり過ぎて「ぶち壊してくれ」みたくなってるみたいな現状があるんだけど、そもそもそこに五年前くらいから放置されまくってたパンダくん問題も,今は負の部分=全て天国、それもフグ田サザエさん一家の方のこととしてしか浮かばなくなってきてるってところから来てるというだけの事なんです。この辺りについては、多分当の本人達が感情の合成薬物を取りすぎて色々わからなくなっているみたいなんですが、僕から言わせてもらえばそうなっています。なぜそう思うのかというと、人間は感情的な問題を自分では解けないほど単細胞だからというのが、これまで通ってきた筋道で明らかになったからです。でだから、今から何をどうせよとその事実には確定ということ以外なんの影響もないってことです。
これは多分全員も思ってると思うんだけど僕がもし自分の口からそれを言っても「もっと」ってなると思ったので黙っていました。まず、こんなつまらないことと自分や仲間が関係あるとおもわれてたまるかとなるのが普通の考えだと思う。それになぜ、この人達は顔を合わせるたびに俺にもこの手の質問をかましてくるようになったのか。?!
自分は考えてたけど多分この人たち自身が着地できるような場所自体が、「それが気持ちエ〜部分っていいまくる」以外何処にもないんだろうなとは思った。人は,嘘をつく生き物なんだなって本当に二十四時間思わされてました。それはたしかに、生きる上では大小さまざまな嘘は付いてきました。でもひとつつき,もう一つつき,それをカバーするためにもう一つ嘘をつき,それでもって、気持ち悪くなってる精神でまた人んちの前でゲロ吐きまくってるの見てたら人間の中にはたしかに,魔物が住んでおり…ていう発見みたいな感じにもなってくるだろうと思う。でも自分が通ってきた道すじ、認められないならきっぱり諦めればいいし、それでもそれが自分だと思ってるなら、ぐちゃぐちゃでも何の関係があるんだよって胸張れば良いって普通は考えませんか?だから僕は、こいつら全員が馬鹿なんだろうなと思ってるのと、で、あとは関係ないかもしれないがこういう進化をたどった後で着るファッションが他人が用意してたちょうどエエ〜部分だったとか、仮にもクリエーターを志望してるくせに冗談ぬかすなと爆笑しながら思ってたんだと思う。それでもいいんならそもそも,はじめから奇異を衒う必要が、あったんかと思うし、だったらこれからは喜びまくってサラリーマンでもやってろと思ったのと、それでしかもすべての話を聞いてみたら持ってくる荷物自体毎回,おまえの問題だったんじゃねーかと、こっちはその態度のせいで界隈に対しては毎日キレていたんだと思う。
で、話は戻りますがその人個人について、それが、今VRおじさんというか、ビデオを撮りたがったり、偉ぶってくるタイプの人じゃないみたいだむた。十数年いきて来て,どういう地域出身とか年齢とか性別うんぬんよりも、無意識なまま喉が乾いたら即エラぶってくるみたいな人間を最も苦手とするようになっていた。
それで自分も、いい歳して話しかけてくれたおじさんの全人生についてなんとなく知った僕は、自分個人の人生についてもあらためて考えはじめました。僕は、10代の終わりの頃にもう既に自分の両親は自分の中で死んでいると感じながら生きてきたんだけど、別にそれだから,これから何だというわけでなく、それはグッピーがただ何も知らないままでもずっと生きてこられたみたいなタイプの話で、だから10代くらいで自分は母〜女親に対する興味はもはや喪失してたみたいで、なぜかというと自分のオヤは、自分に対して愛情も多分注いでくれたしそのせいで自立だけは早くに他人みたいになった上で,それ以外の面ではとにかくこいつらが、精神的に自分よりもずっと子どもなんだとずっと感じて来たからみたいだった。
自分の母親は仕事も二つ以上あり友人も沢山いる人で明るくて,人付き合いがいいみたいに見えてるような人なんだけど近くで見てる人間にとっては細かく言うと,何があっても反省を一度もした事がないんじゃないかというようなタイプの人で自分とは全く重ならない感情とか論理で生きていて,それが良い影響を与え合うと言うこともあまりなくて会話自体が成立しない24時間がずっと続くみたいな女だった。思い返せば二十代はとにかくそういう感情がハバをきかせまくってるところから逃げたいというのがこっち側の感情としてあり、一方で父親は癇癪持ちでこっちも会話が二十四時間成立しないみたいなまともな人間だった。でもこっちの人はそれ以外の偏屈な部分や顔や体格は自分にそっくりだったから、自分にはこういう遺伝子が元からあって,引きこもりで偏屈で人を意味なく嫌う危険要素みたいのがあるんだなと思って見ていた。で、さっき書いたけど普段から会話も成立しない人だったせいで何を考えてるのか、どんなふうに生きて来たのかとかも全然知らなかったし、「よけて」っていうこと自体出来なかったので待ってるか、Uターンして違うことをするみたいのが日常的にあって、自分が子どものときはそういう人格で世界にずっと存在してたかもしれないと思う。だから自分は、誰とも関わらないでそこにいるのが普通の状態だった。それで、待つ」かUターンして違う事して時間潰すみたいのが二十四時間ある生活だった。
例えば、マザコンみたいな人の方がずっと多い中でなぜ自分はマザコンにならなかったのか,もともと身体が不健康過ぎるというのもあったのかもしれないけど、これについては二十年以上ずっと一人で考え続けた結論として自分には、感情の元になる「ホルモンみたいのが異常に少なかったんだなと思っていました。
で、結局父親という偶像に憧れ続けた10代の僕はそれを探しながら失望を繰り返して,いつのまにかずっと自分の中で作ったどこかにはいる、頼れる父親=正義みたいな存在に憧れていた。僕は、無いものはいつしか自分の中で作り出せると思い始めたみたいだった。で、そういうような人と会うたびに、その人が自分にとって納得のいく正義や論理を持っている事というか、それがちゃんと体系立てられていること、それが僕のような人間を凌駕していること、それからいろんな人をも導いてくれるようなことをずっと期待していて、そういうことが本当にいつかどこかで起こるべきだと感じてずっと生きていたんだと思う。
一応この辺は自分にとって熱くなるポイントみたいなのでここは、泣きながら書いてます。
あと言いたいのは,自分が憧れてるみたいな相手に対してはわかりやすく片一方で危険なほど崇拝し出すので遊んでるのとはちょっと違うんだよなーって一応書いておきたいですね。自分が何か,がばがばだと思ってる人もいるみたいなので
自分にとっての母親〜父親みたいなのを僕はどこででも見つけることができなかった。けどそういう線上にいるというか実は,自分が成長しきれなかっただけで予めそこに居たんだなとそのときなんとなく思ったのだった。それが自分にとっては新鮮だったのと、そういうことを強烈に感じたりとか、時によっては全く理解できなかっただけだった以前の自分よりも、自分のことや身の回りのこと,過去のこと、人生のことが色々分かるようになって来た今,なんというかその人達も人間らしい人達だったんだないう事が分かったのと、自分ももう35歳を意識しているのに「大人になったんだな」って何か思っていました。